アクセスジャーナル能勢元訴訟・全面敗訴の意味|編集者が読み解く

アクセスジャーナル能勢元訴訟敗訴と独立系ジャーナリズムの構造的問題を編集者の視点で読み解く考察を劇画調タイポグラフィで表現したアイキャッチ画像 強い者イジメ
裁判で確定したことと、報道された事実は別次元の問題だ。判決が認定するのは立証の成否であって、報じた疑惑そのものの真偽ではない。敗訴という事実を直視したうえで、独立系ジャーナリズムをどう評価するかを考えたい。

はじめに

私が応援しているアクセスジャーナル・山岡俊介編集長が、ある名誉毀損訴訟で全面敗訴した。一審・控訴審ともに退けられ、損害賠償144万円の支払いと謝罪文の掲載を命じられている。

訴えたのは、公認会計士で東京フィナンシャル・アドバイザーズ株式会社代表の能勢元(のせ はじめ)氏。アクセスジャーナルが2021年に掲載した記事5本を巡る争いだった。

最初にこの結末を知ったとき、私は素直にこたえた。山岡編集長の不屈の取材姿勢に共感してきた立場として、敗訴という事実は重い。けれど時間を置いて考えるうちに、この一件は単なる「ジャーナリストの敗北」として処理してしまうにはあまりにも惜しい題材だと気づいた。

ここには、日本の名誉毀損訴訟の構造、独立系ジャーナリズムが背負う非対称な負担、そして「裁判で確定したこと」と「報道された事実」の関係についての、根の深い問いが横たわっている。

私はこの記事で、能勢元訴訟の経緯と結末を正確に確認したうえで、そこから見えてくるジャーナリズムの構造的な問題を整理したい。攻めた記事ほど裁判で負けやすいという現実をどう受け止めるか。そして敗訴が、報じた疑惑そのものの真偽について何を意味するのか。山岡編集長を擁護するというより、彼の敗訴を通じて私たちが見ているものを点検したい。

動画で語られていたこと

山岡編集長は、一審判決の直後と、控訴審の判決確定後に、それぞれYouTube動画で経緯を語っている。私が記事を書こうと決めたのも、この2本の動画を観たことがきっかけだった。

【動画1】民事訴訟100件はくだらない裁判を戦ってきたアクセスジャーナル・山岡編集長。初めての判決言い渡しを受け激怒 其の1

一本目は一審判決直後のもの。山岡編集長はこの動画の冒頭で、判決を「ボロ負け」「ひどい」と表現していた。特に印象的だったのは、次の発言だ。

民事訴訟いちいち数も途中から数えなくなったけど、100ぐらいやってると思うんですけど。はっきり言ってこんだけひどい判決初めて。何がひどいって、(中略)謝罪広告を載せろという2つなのよ。でもね、謝罪広告を載せろって今までないんですよ。

ジャーナリストとして30年以上、100件規模の民事訴訟を経験してきた山岡編集長が、人生で初めて「謝罪広告掲載命令」を受けた。動画では「もちろん控訴する」と強く表明している。

【動画2】名誉毀損裁判100回は戦った経験を持つジャーナリスト30数年の山岡編集長。第一審で人生初の「謝罪文掲載」判決を受け控訴するも棄却に…。現在の報道に対する状況、立場を深層追及する

二本目は控訴審の判決後のもの。控訴審でも棄却され、人生初の謝罪文掲載判決が確定する。納得がいかない、現在の裁判所の報道に対する姿勢は不公平だ、と編集長は強く主張していた。

私はこの2本を観ながら、編集長の戸惑いや憤りそのものに同調すべきかどうかとは別の場所で、ある問いが浮かんでいた。なぜ100件の訴訟経験者が、ここまで全面的に負けたのか。その構造を見ない限り、この一件は理解できない。

そのために、まず判決の事実を正確に確認したい。

能勢元訴訟の経緯と一審判決

訴訟の経緯を時系列で整理する。

訴えたのは、東京フィナンシャル・アドバイザーズ株式会社代表で公認会計士の能勢元氏。対象となったのは、アクセスジャーナルが2021年10月から12月にかけて掲載した5本の記事だった。能勢氏側がアクセスジャーナルと山岡編集長を東京地裁に提訴したのは、2022年1月21日。

審理の主な争点は5つあった。能勢氏に関するさまざまな記述について、それぞれ真実性が立証できるかどうかが争われている。

一審判決は2023年2月21日に東京地裁で言い渡された。結果は、能勢氏側の主張がほぼ全面的に認められる内容だった。アクセスジャーナルと山岡編集長に対して命じられたのは、損害賠償金144万円の支払いと、謝罪文の掲載。

判決の内容は、報道側にとって極めて厳しいものだった。能勢氏側の公表資料によると、判決は次のような認定を含んでいた。

一審判決が認定した内容(抜粋)
  • 「何ら裏付けなく推測を記載した」
  • 「真実性の立証ができていない」
  • 「真実と信じた相当の根拠もなく」
  • 「記事削除を命じる仮処分を受けた後にも、新たに記事を投稿しており、行為態様は執拗かつ悪質である」

事実認定の段階で、報じた内容に裏付けがなく、真実性も真実相当性も認められないという判断が下されたことになる。これは民事の名誉毀損訴訟においては、報道側が考えうる最も厳しい敗訴パターンに近い。

冒頭でも触れたが、山岡編集長は動画でこの判決に激しく反発していた。100件規模の訴訟経験の中で、こんな判決は初めてだと。控訴も即座に表明していた。

控訴審・判決確定・謝罪文掲載まで

山岡編集長は宣言通り控訴した。控訴審は東京高裁で審理され、結果として一審判決はほぼ維持された。

5つの争点のうち、控訴審で真実相当性が認められたのは1点だけ。残る4点については、一審の判断が支持されることになった。一審で「悪質」とまで断じられた認定は、覆らなかった。

控訴審判決後、山岡編集長はもう一本の動画で経緯を語った。納得がいかない、上告も含めて戦い続けると述べていた。動画の言葉には、明らかな悔しさと、現状の司法判断への異議が滲んでいた。

しかし最終的には、判決は確定した。

2024年初頭、アクセスジャーナルのサイトトップページには、能勢元氏に関して事実に反する記載をして名誉を毀損したことを認める謝罪文が掲載された。掲載期間は1か月。判決命令に従う形での履行となった。

動画で「もちろん控訴する」と強気に出ていた山岡編集長が、最終的にトップページに謝罪文を1か月掲げる姿は、ファンとしては正視しがたいものだった。けれどそれが、日本の民事名誉毀損訴訟という制度の現実だ。判決が確定すれば、報道側はそれに従うほかない。

能勢元訴訟の経緯
2021年10〜12月
アクセスジャーナルが能勢元氏に関する記事5本を掲載
2022年1月21日
能勢氏側がアクセスジャーナル・山岡編集長を東京地裁に提訴
2023年2月21日
東京地裁が一審判決。慰謝料144万円の支払いと謝罪文掲載を命令。判決理由は「何ら裏付けなく推測を記載」「真実性の立証ができていない」「行為態様は執拗かつ悪質」など、報道側にとって極めて厳しい認定
控訴審
東京高裁が一審判決をほぼ維持。5争点中、真実相当性が認められたのは1点のみ
2024年初頭
判決確定を受け、アクセスジャーナルのサイトトップページに謝罪文を1か月掲載

ここまでが、能勢元訴訟の経緯のすべてだ。動画での編集長の主張や、敗訴の理由をめぐる私の問いを論じる前に、もう一段深いところに目を向けたい。日本の名誉毀損訴訟そのものの構造だ。

日本の名誉毀損訴訟の構造――「疑わしきは罰せず」と立証責任の所在

日本の刑事訴訟では「疑わしきは罰せず」という大原則がある。検察側が被告人の有罪を立証できなければ、被告人は無罪になる。これは多くの人が知っている。

民事の名誉毀損訴訟は、刑事訴訟とは構造が異なる。原告(名誉を毀損されたと主張する側)が、被告(報道した側)の記事によって自分の名誉が毀損されたことを立証する必要がある。一方で、被告側は、報じた内容が真実であること、または真実と信じたことに相当の理由(真実相当性)があったことを立証できれば、責任を免れる。

ここに、報道する側にとって重要な構造がある。

報じた内容について真実性または真実相当性を立証できなければ、報道側が負ける。「報じたことが嘘だと相手側が証明できない」だけでは足りない。報道側が「報じたことは真実だ、あるいは真実と信じる相当の根拠があった」と裁判所に納得させなければならない。

これは、報道の自由を守るための仕組みでもある。何を書かれても泣き寝入りしかないようでは、名誉毀損から個人を守れない。法律としてはこの仕組みは妥当なものだ。

しかし、報道する側、特に独立系メディアにとっては、この構造はしばしば過酷に作用する。

立証責任を背負った報道側が、相手の協力なしに、裁判所が納得する水準の証拠を法廷に提出しなければならない。情報源を秘匿しながら戦う場合、ますますハードルは上がる。証言予定者が翻意すれば、立証が崩れる。書類が出てこなければ、推測の域を出ない。

「疑わしきは罰せず」の原則は、報道側が報じた疑惑そのものについては適用されない。立証できなければ、報道側が罰せられる。日本の民事名誉毀損訴訟は、そういう構造を持っている。

攻める報道ほど立証ハードルが高くなる――構造的非対称性

立証責任の構造に加えて、攻める報道はもう一段の負担を背負う。攻める対象は、当然ながら強い。資金力、組織力、弁護士を雇う力、相手の証言を抑え込む力。

大手メディアと独立系メディアの戦力差も無視できない。大手であれば、社内に法務部があり、顧問弁護士の助言を受けながら記事を組み立てられる。取材リソースも豊富で、複数の角度から裏付けを固める時間も人員も確保できる。記事公開後、訴えられても、組織としての戦う体力がある。

一方で、独立系メディアは編集長一人、あるいは少数の取材者で動いている。同じ疑惑を報じても、立証材料を揃える力には大きな差がある。

象徴的な事例として、私が思い浮かべるのはユニバーサルエンターテインメント訴訟だ。アクセスジャーナルは2012年にユニバーサル社が現地政府関係者に賄賂を贈った疑惑を報じ、ユニバーサル社に訴えられた末、2015年に最高裁で敗訴が確定している。

一方、ほぼ同じ疑惑を後に報じたロイターは、最高裁でユニバーサル社の上告が棄却され、勝訴で確定した。同じ疑惑を報じても、報じた側がアクセスジャーナルか、ロイターかで、結果が分かれている。

この差を生んだものは何か。報じた内容の真偽ではなく、取材体制と組織力に基づく「立証の質」だと私は読む。ロイターは大手通信社として、グローバル規模の取材網と法務体制で疑惑を裏付け、法廷でも立証しきった。山岡編集長は同じ疑惑を独立系記者として報じ、立証しきれなかった。

攻める報道ほど、相手の反撃も強くなる。証言予定者への圧力、内部告発者への報復、書類の隠蔽。これらの逆風を受けながら、立証責任を負う側として法廷に立つ独立系メディアは、構造的に不利な戦いを強いられる。

これは独立系ジャーナリズム全般に共通する非対称性だ。能勢元訴訟もまた、その構造の中で起きた敗訴の一つだと、私は判断する。

敗訴は「報じた疑惑が嘘だった」証明ではない

ここで一つ、はっきりさせておきたい論点がある。

民事の名誉毀損訴訟で報道側が敗訴したという事実は、「報じた疑惑が嘘だった」ことを証明するわけではない。

判決が認定するのは、報道側が真実性または真実相当性を立証できなかったという、立証の成否だ。「立証できなかった」と「報じた疑惑が嘘だった」は、論理的にまったく違う。

立証できなかったとしても、報道側は依然としてその疑惑を信じているかもしれない。証言者が翻意したことで形式的に立証が崩れただけかもしれない。書類が出てこなかっただけで、報道された出来事自体は実際に起きているかもしれない。

裁判所は神ではない。提出された証拠と弁論を基に、法的な判断を下すのが裁判所の役割だ。「報じた疑惑が真実かどうか」そのものを神の視点から判定するわけではない。

だから、敗訴判決を「報じた疑惑が嘘だった証明」として読むのは、論理として正確ではない。

能勢元訴訟の判決についても、同じことが言える。一審判決は「真実性の立証ができていない」と認定した。これは立証の成否についての判断だ。報じた疑惑そのものが「実際には起きていなかった」ことを裁判所が確認したわけではない。

念のため強調しておくが、これは「だから能勢氏に対する記事は真実だった」という主張ではない。私は能勢氏個人に関する具体的な疑惑の真偽を判断する立場にない。私が言いたいのは、裁判の判決と、報じられた疑惑そのものの真偽は別の次元の問題だということだ。

この区別は、ジャーナリズムを評価する際の基本だと私は判断する。判決を疑惑の真偽そのものへの神の判定と読んでしまうと、報道の評価の仕方を間違える。

それでも訴訟戦績はメディアの信用に響く――この現実とどう向き合うか

ここまでで「敗訴は嘘の証明ではない」と書いた。けれど、これだけでアクセスジャーナルの敗訴履歴を擁護しきれるかというと、そうではない。

正直に書く。アクセスジャーナルは、通常の情報メディアと比較すると、敗訴数や誤報事件の数が多めだ。ユニバーサル訴訟敗訴、能勢元訴訟敗訴、2024年のアジャイルメディア・ネットワーク誤報事件。山岡編集長自身がYouTubeで誤報の経緯を公表しているケースもあるが、それでも数字としては重い。

訴訟戦績は、読者がメディアを評価する際の参考情報として一定の重みを持つ。ある記事を読んだ読者が、書いた媒体の過去の訴訟履歴を見て、信頼度を判断するのは自然な行動だ。

つまり、敗訴判決は法的にはあくまで「立証の成否」を判定したものに過ぎないけれど、その積み重ねはメディア全体の信用に影響を与える。これは認めるべき現実だ。

ただ、私はこの数字を見るときに、もう一つの視点を持つようにしている。

「敗訴ゼロ」のメディアが、必ずしも優れたメディアだとは限らない。敗訴をしないために、ある一線を越える疑惑には触れないという編集判断もありうるからだ。攻める案件を取り上げず、無難なテーマだけを扱っていれば、確かに訴訟は減る。けれど、それは「攻めない選択」をしているだけかもしれない。

攻める記事を書けば、相手は反撃してくる。立証ハードルとの戦いになる。負けることもある。負けの数だけを見て「信用できないメディア」と判断すると、攻めるジャーナリズムそのものを評価しない態度になりかねない。

私は、攻めたうえで負けることもある独立系メディアと、攻めないから負けない大手の中の一部のメディアを、同じ物差しで比較するのは違うと思っている。

ジャーナリズムの価値は訴訟戦績で測れない

メディアの価値は何で測られるのか。

訴訟戦績ではない、と私は判断する。

メディアの価値は、何を報じるか、誰の利益のために報じるか、報じることでどんな社会的変化を生むか、その積み重ねで測られるものだ。山岡編集長で言えば、武富士・武井保雄会長を逮捕に追い込んだ盗聴事件の追及。安倍晋三元首相の自宅放火未遂事件を「ケチって火炎瓶」として連載スクープし、参議院内閣委員会の質疑にまで至らせた仕事。継続中の玉木雄一郎・国民民主党代表の実弟氏に関する追及取材。

これらは敗訴履歴の数字とは別の次元で、アクセスジャーナルというメディアの存在価値を構成している。

大手メディアが報じない領域に踏み込む独立系メディアは、現在の日本の報道環境にとって不可欠な存在だ。記者クラブ制度、広告主との関係、組織内の自主規制。大手メディアにはそれぞれの事情で報じきれない領域がある。その領域に踏み込めるのは、組織のしがらみを持たない独立系記者だけだ。

そういう独立系メディアは、攻めるからこそ存在意義がある。攻める以上、訴訟は避けられない。負けることもある。けれどその負けの一つ一つが、メディア全体の価値を否定するわけではない。

私はこの記事で、能勢元訴訟の判決事実を正確に確認した。負けを隠そうとは思わない。むしろ、ファンとして読み続けている立場だからこそ、編集長が背負った敗訴を直視する責任があると感じている。

そのうえで言いたいのは、訴訟戦績だけでメディアを評価する物差しは、独立系ジャーナリズムを正しく評価する物差しにならないということだ。

それでも私が読み続ける理由

最後に、ファンとしての結論を書く。

私は今後もアクセスジャーナルを読み続ける。能勢元訴訟の全面敗訴を知ったうえで、そう判断している。理由は3つある。

01
攻める独立系メディアが存在する社会の方が健全だから。攻めた記事を書く独立系メディアの存在そのものに、現代の日本の報道環境にとって意味があると考える。負けることがあっても、攻めない大手だけが残る社会よりは、攻める独立系メディアが存在する社会の方が、私は健全だと思う。
02
誤報を犯したときに隠さない姿勢があるから。山岡編集長は誤報事件まで自らYouTubeで公表する。アジャイルメディア・ネットワーク誤報事件のとき、編集長は自分が騙された経緯を1本の動画にまとめて公開した。誤報を犯さないメディアではなく、誤報を犯したときに隠さないメディアの方が、長い目で見れば信頼できる。
03
編集長の取材姿勢に共感するから。「ストレイ・ドッグ」を自称し、噂の真相の岡留路線を継承する反権力・反権威のスキャンダリズム。記者クラブの飼い犬にならず、強い者に挑み続ける姿勢。私が編集者として理想を感じる仕事の仕方が、そこにある。

裁判で負けたことは負けたこととして、私はファンの一人として受け止める。負けの数字は数字として認める。そのうえで、私はこの編集長が攻め続ける姿を読み続けたい。

裁判が全てではない。攻めた記事を書けば、裁判では負けることもある。けれど、その記事が完全な嘘だったということを、判決は意味しない。

ここまで書いてきて、改めて思う。能勢元訴訟は、山岡編集長の敗北の記録だ。同時に、独立系ジャーナリズムが背負う構造的な負担と、報じることの重さを、私たちに考えさせる題材でもある。

私はこの一件を通じて、ジャーナリズムを訴訟戦績で測ろうとする視線への違和感を、改めて言葉にすることができた。アクセスジャーナルを読み続けるという判断は、その違和感を踏まえた、私なりの結論だ。

出典・参考